Tの純粋

その日、私はアルバイト先の事務所で立ち尽くしていた。
「なぜこんなものが、こんな場所に」
客人用のスリッパや教室で使う道具が雑然と積み上げられた事務所の中で異様な存在感を放つ、抱えるほどの大きさの箱。箱を覆う真っ白い布の表面には、銀の糸で菊の花が刺繍されていた。身内の不幸に見舞われた経験のない私でも、それが何かを瞬間的に理解する。
遺骨だった。
置かれた場所が悪いのか、モノがモノだからそう感じるのか、はたまたその両方か。渇いた空気が漂う無機質な事務所の中で、遺骨は物々しい雰囲気を放っている。遺骨を前に呆けている私の様子に気づいた社員が、お手上げといった表情で言った。
「それね、Tさんから預かった『貴重品』だから」
「なるほど」
そう返す以外、言葉が見つからなかった。
私はスポーツセンターの受付でアルバイトをしている。センターは古いながらも充実した設備が売りの施設で、トレーニングルームやプール、卓球場、バスケやバレーのコートに加えてライフル場なんかもある。四階建ての各フロアにはシャワールーム兼更衣室もあったが、古いコインロッカーをこじ開けての盗難が後を絶たないために、利用客には受付横に設置してある貴重品ロッカーを活用していただくように声掛けをしていた。Tさんが持ってきたらしい遺骨は、間口の小さな貴重品ロッカーの幅を遥かにオーバーしていた。
「Tさん」というのは、スポーツセンターに開館当初から通っているらしい常連客の一人だ。彼は雨が降ろうが槍が降ろうが決まって夕方ごろにふらっと現れて、毎日欠かさずプールを利用して帰る。T以外にも常連客はたくさんいたが、彼だけが全スタッフから名前を憶えられているわけは決して良い理由からではなかった。Tはクレーマー体質というのか、なにかと問題の多い利用客だった。例えばこちらのスタッフの顔をよく覚えていて、新人いびりは欠かさない。またどれだけ受付が混み合っていようと自分が最優先でないと途端に怒りだし、長々と受付に居座って延々文句を言っていたりする。スタッフに対してのみ悪態をつくだけならまだ可愛らしいものの、ひどいときには他の利用客にまで迷惑をかけて警察沙汰に発展したことすらあった。語りつくせないほどの逸話を残すTだが、スポーツセンターが区で経営している公共施設であるという点で、センターは彼に対して出入り禁止の措置をとることが出来なかった。区で経営、とはいっても、その中身は外部委託で区とはなんの繋がりもない一般企業が運営している。現場のことを碌に知りもしない上層部の言うことなんか無視すればいいじゃないかと思う反面、息をするように冗談ばかり言っている人のいい上司を見ていると口出しする気にもなれないでいた。それに私は、Tみたいな奴を見ているのは案外嫌いじゃない。
私がアルバイト先を選ぶ基準は、「人が集まる場所かどうか」だ。どこかで聞いた、小説家を志す者は人間をよく見なさい、という言葉に倣ってのことである。その点、スポーツセンターは好条件だった。老若男女を問わず多くの利用者が集まる上に、学生バイトに対しても理解がある。覚えることは多いけれど、内容的にはちょっとした雑用程度のことだ。慣れてしまえば色々な人をよく観察できるかもしれないと思い、受付のバイトに応募したのが始まりだった。そして実際、スポーツセンターには実に様々な人が訪れた。物腰の柔らかい穏やかな人を接客することも好きだったけれど、多少難のある人を相手にしているときの方が考え事はよく捗った。
なぜ簡単な利用規約ですら守れないのだろう。
どうして格安な月謝も払えないのに教室に通わせようと思ったのだろう。
この人は何に納得がいかなくてこんなに怒っているのだろう。
詰まらない事にいちいち文句を言ってくる人たちの方が、「なぜ」「どうして」と考えるきっかけをたくさん与えてくれたように思う。
なかでもやはりTは別格で、私は彼の幼少期を勝手に想像するのが好きだった。誰にでも幼く純粋だった頃というのは存在しているのに、いつ、どんな理由でここまで歪められてしまったのだろう。
「あの遺骨はだれのものなんでしょうね」
 Tが持っているということは、彼の近親者であるということだ。そんな事実に、ふと思い至った。
「母親だって言ってた気がする」
 先程の社員が答える。この社員は受付の責任者を務めていて、どうやら肩書に弱いらしいTと唯一会話らしい会話ができる人だった。
「Tさ、あの遺骨、最初は普通のコインロッカーに入れるつもりだったみたいなんだよ。それが入らないもんで、仕方なくこっちに持ってきたんだ。遺骨だってこと隠そうともしないで、なんか周りに見せつけてるみたいだったんだよ」
 おかしいよな、仮にも自分の母親だぞ。そう言った社員の方が、Tよりよほど故人の親族らしい表情をしているように見えた。
無精卵を温め続けるような純粋だった頃が、私にもあった。
Tを接客するとき、私にはいつも思い出す光景がある。幼いころ、冷蔵庫からくすねた卵を、母が手作りしてくれた柔らかなガーゼのスカートにくるんで温めていた日のこと。当然卵が孵ることはなかったし、最終的に私はその卵をうっかり潰してしまうのだけど、母は私を怒らなかった。スカートにこぼれた卵を見た母は面白そうに笑い、それを使ってオムレツを作ってくれた。
 Tの幼少期はどんな子どもだったのだろう。いつでもそこに立ち返れるような、あたたかな記憶はあるだろうか。
 遺骨の方を振りかえる。相変わらず異様な存在感を放ち続ける箱の中の、見ず知らずの女性のことを想った。もしかしたら彼女こそが、いまのTをTたらしめた元凶かもしれない。けれども、もはや表情も体温すら失った彼女の、せめてもの冥福を祈ることにした。
 あの日の帰り、利用を終えてプールから出てきたTの元に社員が遺骨を届けると、Tからお礼を言われたらしい。
「大事なものだからさ、預かってもらえて良かったよ」
 と、それは長い付き合いのなかで初めて聞いた感謝の言葉だった。

相澤 美沙音

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